亡き父の被爆体験/広島 つるやことぶき

毎年、8月6日に連ツイしていた亡き父の被爆体験。ちょっと、フライングだけど、安保法制の強行採決に抗議してるに違いない父に代わって今から連ツイ。
広島と長崎に原爆が投下されたのがいつなのか、それを知らなくてもいい。でも、その時、広島と長崎で暮らしていた人、その安否を確かめに他所から駆けつけた人、父のように後片付けの為に召集された若者がどんな体験をしたかを、是非知ってもらいたい。ttps://twitter.com/turututukotokot/status/621674795722084352?s=20

昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。その日は朝から快晴の暑い日であった。

 

学校へ出勤して、自分の教室の窓を開けていたところ、まっ青な南の上空の山の上に「ピカッ」と閃光が走った。雨も降っていないのに稲妻が走るとは不思議なこともあるものだなあと話しながら、数日してそれが広島に強力な特殊爆弾(原爆とは当時解っていなかった)を投下された閃光だったと解り、こんな山奥にも届く強烈な光だったのかと驚いたものだった。

 

その日授業をしていたところ、上空に金属音の爆音を響かせながら、双胴のロッキードというアメリカの偵察機二機とB29爆撃機が通り過ぎて行った。広島の爆撃機とは関係なかっただろうが、民意を撹乱するには十分のものがあり、いよいよ本土決戦間近かとずいぶん厭な思いをしたものだ。

8月10日、いつものとおり授業をしていると、父が顔色を変えてやって来た。私に召集令状がきたという。

粗末なピンク色のザラ紙に印刷されたものを持ってきている。来る12日に庄原実業高校に講堂へ出頭せよと言うものだ。

 

いよいよ来たかと覚悟を決め、家に帰って身支度をし、眠れぬまま翌日家族の者や先生、子どもたちや近所の人々に見送られて入隊のため学校をたっていった。

本来は、広島の第5師団に入隊するのが本筋であるが、原爆で壊滅しているため、急遽ここを集合地ときめたのだという。集まったメンバーは比婆郡西部で当時残っていた40歳以上の丙種合格者と我々18歳位の予備役の者だった。確か100人位だったと思うが比婆防衛隊という隊が編成され、I(注:自伝では実名)という少尉の小隊長、T(注:自伝では実名)という軍曹の分隊長に引率され汽車で広島に行き、原爆の後片付けをすることになった。

一応兵隊であるため、陸軍2等兵の襟章のついた軍服と軍帽、ゲートル、軍靴それに竹の鞘の牛蒡剣や雑嚢などの支給を受けたが、銃は不足しているので支給しないということだった。

後片付けに行くのになんで銃がいるのかと思ったが、聞けば敵軍がいつ広島に上陸するか解らないので必要だという。しかし渡せないので上がってくれば牛蒡剣で戦えと言う。

これは心細いことになったと内心辟易したが仕方ない。翌日国鉄の汽車で広島に向かった。

 

途中の駅で、無蓋の貨物列車とすれ違うたびに、体中に真っ赤なアカチンを塗った兵隊や市民が満載され、うめきながら奥地(三次や庄原など)へ運ばれて行くのに出会った。

その惨状を目の当たりにして、これは大変なことになっているぞと、嫌と言うほど知らされてぞくぞくっと身震いを覚えた。

 

広島に近づくにつれ、うだるような暑さが襲って来、人の焼ける臭い(いわしの腐ったのを焼くような)と建物や草木の焼ける臭いが交じりあって風に乗って鼻を突く。

喩えようのない異臭に嘔吐を催しながら、矢賀駅に着いた。駅は見る影もなく吹っ飛び、周囲はすべて焼き尽くされて一望する範囲何も見当たらない。スピードをぐっと落としながら、徐々に広島駅に入っていった。

駅のホームは屋根がすっかり飛ばされており、駅舎はすべて焼け焦げ、黒々とした残骸が不気味に立っていた。

駅前に整列して、駐屯地へ出発することになったが、駅前周辺には、焼け出されて、真っ黒の顔に、ぼろぼろになった被服をまとい、虚ろな表情で座り込んだりうろついている人々や真っ裸で走り回る子どもたちがいっぱいいた。

 

猿猴橋を渡り、稲荷橋を通って八丁堀に出たが、途中は見渡す限り焼け野原になっており、あちこちに、火傷を負って動けなくなりうずくまって、小さな声で水を欲しがっている人達がいた。

八丁堀付近には、福屋や中国新聞社(現在三越)などのビルが真っ黒の残骸をとどめていた。

紙屋町ではまだ電柱がくすぶっており、電車の焼けた残骸が醜く転がっていた。

現在のそごう百貨店や県庁付近は、その当時広島西練兵場で、今の広島市民球場(現在は跡地)のあたりに護国神社の鳥居が半分に折れて倒れていた。

産業奨励館(現在の原爆ドーム)は赤茶けて立っていた。紙屋町を左に折れて、鷹野橋方面へ向かったが、途中に住友銀行や日本銀行の建物が黒く焼け焦げ突っ立っていた。国泰寺の楠の根元が裂け、枝葉が電車軌道に散らばっており、それを避けながら歩いて大手町の国民学校(現在の大手町中学校)へ辿り着いた。

 

早速持参の昼食を食べ、宿舎の設営にかかった。宿舎といっても材料がある訳ではなく、運動場にあった高鉄棒の鉄を棟に、付近の焦土から拾い集めた鉄材で屋根を作り、焼けたトタンで葺いて急造の宿舎を建て、砂場に荒むしろを敷いて寝るところを確保した。

道路のアスファルトが熔けて軟らかくなり、歩くと軍靴の足跡がつく程の暑さであるから、この程度の設備で充分だ。近くにコンクリート製の防火用水の桶を集めて並べ、板を渡し、周囲にトタン板を立てて便所を作った。

また、焼け残っていた五右衛門風呂を2つとドラム缶を拾ってきて、ご飯を炊いたり塩汁を作る炊事施設や風呂を作ったりして作業を終わった。

周囲の異臭と今までに経験した事のない猛烈な暑さですっかり参り、殆ど食欲はない。それでも食べないわけにはいかないので、軍から配給された玄米をそのまま五右衛門風呂の釜に入れ、焼け残りの板切れを集めてご飯を炊いた。普通ではとても食えたものではない。それにおかずは何も無いから、川から獲ってきた「あおさ」という青海苔に似た草を入れた塩汁を作り、玄米飯にかけて無理矢理流し込んだ。

 

午後10時を過ぎる頃、激しい夕立。黒い雨だったのか急造の屋根はあちこちから雨漏りを始め、とても寝ている状態ではなかった。やっとあめが上がったが、無理に寝付こうとしてもなかなか寝付かれない。そのうち誰かが、「遠くの方で鬼火が飛んでいる」と言い出した。見ると、あちこちで「ボー」と青白い火がついては消えていく。それが点々とあちこち断続的にそれが点々とあちこち断続的に続くので、ちょうど火が飛んでいるように見える。とても幻想的で薄気味悪く、一瞬息を飲んで見つめていた。

 

多くの人が一瞬にして非業の死を遂げた訳だから、その恨みをこの世にぶっつけているのだろうか。年寄りから聞いてはいたが、現実に見たのは初めてである。意識が錯乱して、ただ呆然と見続けるだけだった。

 

後で皆と話したことであるが、この現象は定かではないが、雨が上がって、各所に散在する人骨の成分の一部である燐が何かの化学反応を起こし発光したのではないかと。

また続けて遠くの空をオレンジ色の「火の玉」がゆっくりと横切って行ったのも見た。よく聞いた話だが未だもって不思議でならない。

 

とうとうまんじりともせず一夜を明かし、いよいよ復旧作業に当たることになった。起床して先ず便所に行った。汚い話をするようで恐縮だが、昨日食べた玄米飯は全く消化されず米粒のまま排泄されていた。厭だなあと思いながらもまた例の食事をしなければならない。他に食べるものがないのでその配給がなくなるまで数日間続いた。

 

食事が終わり全員校庭に集合、小隊長から訓示があった。『本日から復旧作業に入るが、作業と班編成については後程指示する。『本日から復旧作業に入るが、ひとつ皆にお願いすることがある。敵軍はいつ広島に上陸してくるか解らない。それに備えて今夜から歩哨についてくれ。』兵舎から100メートル離れた位置に1名立ち、そこを中心に30メートル以内を動きながら警戒せよと言う。そして怪しい人影を発見すれば直ちに「誰か、誰か、誰か」と大声で3回誰何(すいか)して、3回目に何の応答も無ければ剣を抜いて突入し刺し殺せと言う。全く経験の無い我々にとってはびっくり仰天。でも、やらないではいられない。

早速今夜午前2時から、2人1組で1時間交代の勤務に就くことになった。

 

覚悟を決めて就く作業の記憶は定かでないが、確か第1日目は、宿舎のある大手町国民学校の周囲に巡らされていたコンクリートの塀が爆風で倒れ、その下敷きとなった登校中の生徒を掘り起こし火葬せよというものだった。

ツルハシでコンクリートを壊し、下で死んでいる遺体を引き出すのであるが、遺体の状況を喩えると、ちょうど蛙が車に轢かれてぺしゃんこになり、乾いてからからになったようだった。

それが何人も何人もずらりと並んで下敷きになり死んでいる。皮膚や髪の毛は茶褐色に変色し、服は裂けて、骨が露出している者もおり異臭を放っていた。

とても平常では見ておれない。目を覆いたくなる惨状であった。

 

一人一人急造の担架に乗せ、防火用水をためていたコンクリート製のものに焼けた鉄棒を縦横に並べた臨時の火葬台に運び、その上に何十体も横たえて薪を置き、重油をかけて火をつけ荼毘に付した。

兵隊の中に僧侶がいて、その人がつきっきりでお経を上げ弔いをした確かその位置が、現在の平和公園の慰霊塚辺りではなかったかと思う。

当時は衣服の棟に必ず住所、氏名と血液型を記入した名札をつけるよう義務づけられていたので、屍体の全てがつけていた。

今から思うと、その名前を全て記録しておけば遺族の方に連絡できたのにと悔やまれてならない。

そのときはそうした思慮も消え果ててただただ屍体の処理でいっぱいだった。

こうした作業をしているうちに、なんだか精神状態も変化して、無神経というか、恐ろしさも、死人に対するむごたらしさも、目にする焼け野原も、鼻を突く異臭も、不思議と感じなくなっていった。

異常な神経の持ち主になっていたのではなかろうか。

通常の思考力を失った、ただ作業をするだけの機械になっていたのではと反省している。

幾体も幾体も焼いて(確か600柱位と聞いている)山のように積み上げた遺骨に合掌し作業を終えた。

その遺骨がその後どのようになったか、知る由もない。

その日就寝したが起こされて動硝の任務についた。

懐中電灯を左手に、牛蒡剣に右手を添えて30メートルの範囲を恐る恐る歩く。何か「グサッ」と踏んだ。懐中電灯で照らして見ると、首と手足が白骨化し頭と胴体が焼け残った遺体の腹を踏んでいたのである。飛び上がるほど驚いた。思わず「南無阿弥陀仏」と手を合わせ、その場を離れた。

 

ちょうど歩いて廻る範囲に市役所の建物があった。

薄暗い明かりの中に薄気味悪く黒々とつったっている。

その前に差し掛かったとき、何か「ごそごそっ」と音がして人の気配がする。「すわっ敵襲」と覚悟して剣を抜いて身構え、「誰かっ」と叫んだ。何の応答も無い。「誰かっ」と2回目を怒鳴った。まだ黙っている。いよいよ3回目「誰かっ」と言って飛び付こうとしたら、蚊の泣くような声で「怪しい者ではございません」と答がかえってきた。

「ああ日本人か」とほっと胸をなで下ろし」、近寄って「どうしたんだ」と尋ねると、破れトタン板を被ったその下から女の人と子ども2人が顔を出して「私達はこの近所に住んでいたが焼け出され、主人は死に、やむなく市役所の中に寝ていたが、蚊が多く暑くてたまらないので、こうしてここに出ています」と言う。気の毒だがどうしてやることもできない。

「気を付けて」と言い残してその場を去った。その人達はその後どうなったか。

終戦の日(8月15日)の早朝のことである。

 

その日も暑い日だった。作業を続けていると、昼前になって全員校庭に集合せよという命令がきた。何事かと思い急いで帰ってみると、台の上に無線用の携帯ラジオが置かれ、小隊長から「正午から重大な放送があるから聴くように」という伝達があった。天皇陛下の玉音放送だという。みんな襟を正し、直立不動で聴き入ったが、音が大きくなったり小さくなったり、また雑音が入って途切れたり、ちょうど波が寄せたり引いたりするように所々がやっと聞き取れる程度で、内容は全く解らなかった。

ただ雰囲気で戦争に負けたのだと悟った。

小隊長から日本は無条件降伏したのだという意味の補足があり、みんなあ然として暫く声も出なかった。勝てると信じ、苦難を乗り越え、現に今も苦しい作業に挑戦しているではないか。急に力が抜け、そして明日からはどうなるのだという不安が胸を横切る。やがてみんながガヤガヤと騒ぎ始めた。

その時小隊長から概略次のような訓示があったと記憶している。

『諸君の動揺はよく分かる。小生自身も慚愧に堪えない。しかし現在はこの任務遂行中である。何らかの指令があるまで、このまま作業をつづけるように。』その日は休息を取り、指令を待った。

 

翌日からも作業を続けることになり、私達は福屋百貨店の屍体の処理を命じられた。行ってみると地下の水道が破裂して地下1階が水で一杯になっており、そこに数人の屍が浮かんでいる。すっかり腐乱し、大きく膨れ上がっていて、男女の見分けもつかない。近くに引き寄せるのが大変だ。長い竿を探してきてその先に「鳶口」をつけ、屍体に打ち込み引き寄せようとするが、腐乱しているので引っかからない。仕方なく肋骨をめがけて打ち込み、やっと引き上げて急造の担架で昨日のところへ運び火葬した。

上げるのに手間取って数体の処理で1日を終えた。

 

確かこの日だったと思うが日本銀行が業務を再開し、金の支払いを始めるということになった。翌日我々に銀行内の死体の処理と地下の金庫から金を運び出すという作業の命令があった。行ってみると、1人の女の遺体がうつ伏せになって転がっていた。背中の衣服はちぎれて吹っ飛び、着ていた縦縞のシャツの模様がくっきりと茶褐色に変色した肌に焼き付いていた。裏返してみると衣服が残っておりきれいな肌だった。ねんごろに火葬してあげた。

大きな地下金庫から金を出す事になったが、金庫の扉が爆風で前に膨らんでいる。その時は別におかしいとは思わなかったが、後で聞いた所では、強い爆風のため一旦へこみ、また吸い出されて外へ曲がったのだということだった。

誰がどのような方法で開けたかは知らないが、開いた中から10圓札が30万圓入った木箱を担いで1階へ上がり、行員に渡して支払いの準備をして貰った。

このような大金をさわったのは、私の一生で子の時限りである。

今の金にして3億円くらいではなかったか。

ずっしりと重く肩にかかり貴重な体験であった。

 

それから、まず市内の足を確保するためだったそうだが、電車軌道の電柱を立てる穴掘りを命ぜられた。私の掘ったのは、相生橋から紙屋町寄りに3つ、ちょうど原爆ドームの前である。

今は作り替えられていてその柱はないが、「このあたりだった」と通るたびに思い出されて懐かしい。そ

の他、中国新聞社(現在は三越百貨店)の片付けや、駅前から牛田方面への電灯をつけるため電線を引いて歩くなど、復興のためきつい作業を終戦後にかかわらずまじめにやったものだ。

 

終戦になってから、年取った連中は要領が良くて、上官が自分の作業班にいないときは、いくら作業開始の命令はされていても作業は程々に。

みんな二等兵のよしみから命令はそっちのけで、(前述の通りの食事では)腹が空いてたまったものではないから、戦争には負けたのだし、先ず自分の身体が大事」だとこっそり抜け出して食べ物の調達に奔走していた。

 

戦時中は、資力のある家は地下壕として穴を掘り、空襲に備えるとともに非常食や貴重品を入れて保管していた。

たまたまこれを見つけてからはそこに目をつけて、それらしいところを焼土の中をかきまわして、魚肉や果物の缶詰、乾パンやうどんなど、その当時なかなか手に入らなかったものを探し出してきてそれを持ち帰り、みんなで分けて食べた。

年寄りの才覚で大いに感謝した。

私たちもそのお陰で、なんとか病気にもならず除隊までこぎつけたものだ。

 

8月20日になって軍が解散することになり、全員その場で無罪放免となった。

入隊の時支給された装具一式と毛布一組を貰い、汽車に乗って帰郷した。

年寄り連中は、拾い集めた高価な皿や数々の品を毛布にくるんで持ち帰ったが、当時私にはそんな欲気はなく、焼けた鉄兜やサーベル(訓練用の指揮刀)みたいなあまり役に立たぬものを持って帰っていた。

田舎にはあるかもしれない。

 

帰ってからは、現職のままの出征だったため休む暇なく職場復帰であった。嫌々勤務していたのが敗戦のため益々嫌になり、辞職を速めたように思う。今にして思うと、知らないこと程怖いことはない。原爆被災の影響が50年経った今もなお、身体を蝕み続け病気を発生させている。

その当時、このことが解っていれば果たしてこのような作業に従事しただろうか。知らずに無理矢理やらされていたのだ。

やるとしても、こんなやりかたではしなかったのではないか。

今回の胃腫瘍は関係しているかもしれないが、運命だと諦め、原爆手帳の交付のお陰で少ない経費で治療が出来るのがせめてもの慰め、その面では感謝している。

 

いずれにせよ、今後こうした戦争、または放射能汚染による被害が起こるような事態は決してあってはならない。

かわいい子どもや孫達、またその子どもたち、永遠に続く子孫達に私達のような経験は決してさせてはならないと思う。

短い文章の中では被爆の実態はとても書ききれないが、受けた心の傷は今もずっしりと残っており、口には出さねど恨み続けたいと思っている。

どのように世代は代わろうとも、こうした事実は忘れることなく子々孫々にいたるまで語り継いで欲しい。

これが私の願いである。

私の人生の中の大きな大きな出来事の一つであったことに間違いない。」完

 

父がこの手記を書いたのは、被爆者検診で胃がんが発見された時だった。幸い手術で胃の3分の1を切除して助かった。しかし、再発、転移が不安だったのだろう。この後亡くなるまでの20年以上、毎年8月6日が来ると孫たちに「来年は爺ちゃんの名前が原爆死没者名簿に載る」と言っていた。これが現実。戦争を始める人がいて、戦争は始まる。そのせいで、こんな思いを一生抱えて生きることになる青年がいた。安倍総理は戦争を始めた人の母方の孫(父方の祖父は戦争に反対している)私はそれによって何も知らされずに被爆した父を持つ被爆2世。戦争法案を強行採決した安倍総理とその仲間たちを許さない。なんか、すごい勢いで父の被爆体験がリツイートされてる。インターネットを知らない父は浄土でビックリしてるだろうな。 でも、今、伝えないと。

togetterでまとめられた方のリンクも貼っておきます。