いたばし女性史研究会というところから、わたしの戦争体験記 という冊子が発行されていることを知りました。斎藤俊子様と連絡を取り、掲載のご許可を頂きました。

私の戦争体験記  田畑ミツ子

今は平和な時代だと思いますが、世界の状況を考えますと、暢気に構えてばかりはいられないような気がいたします。あの惨たらしい戦争が起きないようにするために、過去のおぞましい事実を知り、二度と再びあのような出来事を起こさない様に皆で意識の改革をして行かなければならないと思います。 
 今年もまた、東京大空襲や広島、長崎の原爆記念日が、やってきます。戦争の事実を少しでもお知りになりたい方は、是非、私の母の手記を読んで下 さい。

 そして、母の叫びを聞いて下さい。お願い致します 。
2004年2月 いたばし女性史研究会   現代女性文化研究所会員 齋藤 俊子

『太平洋戦争と奉天』

昭和12年、盧溝橋の一発から戦争が突如として拡大し、太平洋戦争へと進んで行った頃、私は、東京の専門学校に通って居りました。

卒業後、満州(奉天)の親元へ帰り、亡き主人と結婚したのは、昭和19年の4月でした。

当時、夜は電燈に表は黒、裏は赤色のネルで二重カバーを付け窓も同様のカーテンで、敵の夜間空襲の防備をして生活するのが強要されていました。

ある夜などは、特務機関の警備員が4名、土足のまま踏み込んで来て、新婚生活の私たちに嫌がらせをした事もございました。

然し商社に勤務し、何とか兵隊に連れて行かれるのを逃れていた主人の元にも、とうとう最後の「男狩り」で召集令状の赤紙が届いたのです。

主人は戦争も、もうすぐ終りを告げようとする昭和20年の7月に北陵へ連れ去られ、戦後シベリヤへ抑留され、昭和23年の11月舞鶴の港で再会するまで、音信不通で、生死の分からぬままで、

乳飲子(昭和20年11月生まれの娘)を抱えての生活は、筆舌に尽くし難いものでした。

内地(日本)でお暮らしの皆様も、東京大空襲、広島、長崎の原爆と色々被害も多々おありかと思いますが、その頃の奉天の様子をお話ししたいと思います。

 

『十間房』

ある日の昼下がり、二階の二重窓の小窓がバーッとものすごい勢いで開きました。軍機の低空飛行です。おそるおそるカーテンの隙間から見て驚いてしまった事がございます。

飛行機の中に乗っている軍服姿のロシア人は、たまにお茶を飲みに行く喫茶店“ビクトリア”のウエートレスの女の人だったのです。

飛行機の低空飛行にも驚き、その軍人が顔なじみの喫茶店ガールで煙草をくわえている姿に、本当にびっくりしてしまいました。

またその日から数日後、奉天の花柳界、“十間房”という所に爆弾が投下され、女の人が緋の長襦袢のまま、タンカに何十人も何十人も運ばれて家の前を通って行きました。その女の人達はみな死体でした。

 

また、十間房には深さ30メートルもある大きな穴があり、ゴミ捨て場として使用されていました。しかし穴の底には、中国人の頭の骨、手足がバラバラにされゴロゴロ転がっていたのです。

夜中犬が人肉を食べ、白骨だけが残されてしまったというミステリックな事件を聞いたのも一回や二回ではございませんでした。

また中国人のドロボーが警官に捕らえられ、路上で然も大衆の面前で幅7センチメートル程もある厚い革のベルトで「ピッシャー、ピッシャー」と音を鳴らして、何度も何度も叩かれたのを見た事があります。

両手を後ろに縛られいるものですから抵抗することも出来ません。「ショーファバ(説明しろ)ショーファバ(説明しろ)」と、怒鳴る警官。

「アイヤー・トンアー(あー痛い)アイヤー・トンアー(あー痛い)」と泣き叫ぶ中国人、そのうち中国人の背中からは、血が迸り出てきました。

余りにもむごい日本人の仕打に驚きましたが、二・三度同じようなことに出くわしますと、「あら、やられている かわいそうに。」と、さほど驚かなくなって来ていたのです。

 

昼間のそのような事件とは正反対に、夜が更けると、憲兵等は酒気をただよわせて、大声で軍歌を歌いながら、十間房の色街へと十数人、群れをなして流れて行くのです。

勿論、憲兵や関東軍の将校達もそのような方ばかりではなかったと思いますが、二十歳の私には、昼間の事件の時の憲兵や将校の姿と色街へ嬉しそうに出掛けて行くその者達の姿を見て、

これが本当にお国のための行為なのかと、情けなく思えてなりませんでした。

しかし心では色々思い悩むことがあっても、それを口に出して言える時代ではありませんでした。私などもあの当時の地獄図は、思い出すまい、考えるまいと思って生きてまいりました。

しかし私も65歳となり、あの時の本当のことを少しでも今の若い方に知っていただきたく、ペンを取りました。

『敗戦と帰国の船旅』

昭和20年8月15日、遠く離れた祖国日本からラジオで「ガーガー」と言う雑音を交えて天皇陛下の無条件降伏のお言葉を拝聴させていただきました。

 

日清、日露戦争での日本の勝利しか経験したことのない私の両親達は、娘婿も近々帰ってくると思い、喜んで赤飯を炊いて待つという騒ぎ様でした。馬鹿げたことでございました。


敗戦から数日過ぎた頃ハルピン、新京方面より女、子供達だけ着の身着のままの姿で、難民として奉天の街へなだれ込んで参りました。

恐怖と不安で身重の私は身の回りのものだけ持って急いで父母の元に帰りました。寝具や家具、食器など運び出す余裕などありません。

胎内の新しい生命を守ろうと懸命でした。

そのころ中国の八路軍、(中国の方面隊)露兵(ロシアの兵隊)の接収が始まりました。露兵は太いベルトで自動小銃を腰にくくりつけておりました。

露兵を見るたびに、何時引き金を引かれるかと、おびえながら毎日を過ごしておりました。

そして11月、父母の元で何とか無事、長女を出産することが出来ました。

産後21日目頃だったと思います。

 

露兵の女性強姦があちらこちらで始まりました。

私もロシア人侵入の寸前、赤ん坊を毛布にくるんで素足で父の借家に住んでいた、ムハメザノフさん(ロシア人)の家の裏口から逃げ込み匿ってもらったこともありました。

街では、白昼、路上で20数名の露兵に次々に強姦され、あげくの果て、トラックに放り込まれ遠方に捨て去られた婦人、マータイ袋(麻袋)で上半身をかぶせられ泣きわめいていた婦人。

突然の露兵の侵入で慌てて三階の窓から飛び降りて、膝の骨が反対側に突き出てしまって歩くことも出来なくなった人、きっとあの方は、日本には帰ることが出来なかったのではないでしょうか。

 

日本人は、我が身可愛さのためにロシア人の手下になり、金持ちの日本人の家を案内して強盗をして回る状態が相次いで起きました。

勿論この頃からは、白米を食べることを禁じられコウリヤン・アワ・トウモロコシの粉を主食として暮らしていました。砂糖、味噌、醤油等は貴重品とされました。

時計、万年筆などは、全て略奪され生死をさまよう様な毎日でした。

入浴などは殆ど出来ません。夜中には、赤ん坊を泣かさない様にずっと抱き放しで幾日も寝ることが出来ませんでした。

 

そのような日々の中、親類の者の計らいで引き揚げ(日本本国への帰還)が出来る様になりました。

貴金属没収、一人千円だけ持参しても良いとの許可。背中一杯もある大きなリュックサック、生後7ヵ月の長女を帯布で、袋を作り首から吊るして、私の身体の前にぴったり結わえつけ、

赤ん坊の恐怖を拭うこと、母親として強さを見せつけ、何としても日本に行き着くぞと必死の思いでございました。

いよいよ奉天駅出発、長い長い引揚者達の列は、後を絶ちません。

然し待てども待てども私たちを乗せる汽車は、見えません。そうしている間に中国人の少年に大切なリュックサックを持ち逃げされることがあちこちで連発していました。

数時間後、やっと汽車が来ました。汽車には、屋根がなく、ぎゅうぎゅう押しつめられ、まるで牛馬の扱いでした。石炭車ですから、黒煙を吹き散らし走っています。

自分の頭や顔に、手をやると石炭粕が一杯ついているのです。こうして四日目汽車から降りてコロ島までの道を歩きました。どの位歩いたか分かりませんが、12から13キロメートル位あったのではないでしょうか。

父は、「もういい、何も入らない。」と言って背中のリュックサックを捨てました。私は慌ててリュックを拾いに戻りました。
皆が疲れきっているそんな頃、後ろを歩いている産婦が陣痛を訴えました。

それでも列を乱すことは許されません。その産婦は、赤ちゃんの頭を半分体外に出したまま地面に血まみれになって引きずって歩いていました。気の毒に思いましたが、どうしてやることも出来ません。

列からはみ出て、地面を這い回って泣き叫びながら死んでしまいました。あのむごたらしい光景をどう皆様にお知らせして良いか分かりません。

 

そのような事件もありましたが、何とかコロ島から博多へ向かう汽船に乗り込むことが出来ました。

主人や兄、姉とも離れ、年老いた父と母、我が子のためにがんばらなくちゃと自分に言い聞かせていましたが、これからの内地での生活が想像もつかず、不安で仕方がありませんでした。


暑さにむずかる赤ん坊を抱いて甲板に出ていたその時、2歳になる坊やが下痢症状を起こし「コレラ」と断定されたため、まだ息をしている子を箱に詰め海中に水葬をするところでした。

泣き叫ぶ母親のうめき声とサイレンの音は、今でも忘れることは出来ません。

 

数々の悲惨な出来事を眼の当たりに見て参りましたが、どうにか引き揚げ船までたどり着くことが出来ました。然し、日本人船員に迎えられ、ホットしたのも束の間でした。

むずかる赤ん坊を抱いて、甲板に出て授乳をしていたところ、

同じ引揚者の男の人が殺気立って怒鳴るのです。「このアマ!!誰の許しを得て人のリュックに持たれやがる」と、その上、私に殴りかかろうとさえして来たのです。

 

また荷役夫が取り落とした米俵が体に当たり「ギャーツ」と言う一声で即死してしまった老人も居りました。

 

蒸し風呂の状態で40日余りの船底での生活、食事はコウリャンのおかゆと芋つるの塩汁でした。日、一日と栄養失調になって行くのが分かりました。

 

それでも私は未だ若いから良い、父と母は何とかしてやらないと、無い知恵を振り絞って考えた揚げ句、煙草二箱を持って、ワッパメシ一杯と梅干し一個の弁当を貰いに船員に頼みに行ったこともありました。

何十日かぶりで口にする白米を涙をこぼしながら食べていた父と母の姿、何不自由無く、贅沢な暮らしをしていた満州時代を思うと本当に哀れでした。

 

それから、数日後もう一度、ワッパメシを手に入れたくて、船員に掛け合いに行ったところ、船室に鍵を掛け、私を犯そうとしたのです。

同じ日本人と思って甘えた私がいけなかったのか、私に隙があったのかも知れません。でも必死の思いで抵抗し「あなたは、それでも日本人ですか、

この赤ん坊を見殺しにするのか、船底には死にかけた老人が私を待っている。ここから出して下さい。」と泣き叫びました。七ヵ月の娘も事態を知ってか、知らないか、大きな声で一緒に泣いてくれました。

二、三十分そんなことをしているうちに、船員にも良心の欠片が少し残っていたのでしょうか、やっと鍵を外してくれました。

 

『祖国での生活』

そのようなことがありましたが、八月末日に、やっと博多に上陸することが出来ました。私たちは難民救済所でのテントばりのところで、DDTによる全身消毒をさせられました。

 

その隣ではむしろを垂らした個室が八つ程ありましたが、そこでは、強姦された婦人の梅毒検査所がありました。同じ乗船の婦人達のうち三分の一程の方は、恥ずかしそうにむしろをめくりながら入って行かれました。

 

 

その夜は、テントを張り地面の上に、うすべりを敷いた馬小屋の中に畳一枚が一家族の割当てで休むことになりました。

 

疲れきって眠っている父が、一寸となりの区域に足を出したと言うことで「この野郎」の一声で頭を蹴られたのです。

 

 

次の日各方面に駅で別れた時も荷物の置き引き(目を離した隙に他人の荷物を持って行ってしまうこと)は、絶えませんでした。私たちは、長崎の母の実家に向かうことにしました。

 

しかし、沢山いた母の姉や弟の家では、さぞ歓迎してくれるだろうと思っておりましたが、どこへ行っても「家では困る。」と言う者達ばかりでした。

 

しかし、母も「ここは私の実家だ。」と喧嘩ごしに頑張って、何とか納屋を与えてもらうことにしました。

 

 

それからしばらくは、醜い血縁者の争いが絶え間なく起こりました。何度となく「満州で贅沢をしたのだから、今になって罰が当たった。」

 

などと、ののしられました。田舎のことで食べ物はある筈なのに私たちには、殆ど分けてくれようともしませんでした。

 

 

その家も畑も以前、私の母が購入してやったものなのに、このような仕打を受けるとは、母も夢にも思っていなかったでしょう。

それから二ヵ月後、大連にいた姉も三人の子供を連れて転がり込んできました。

何時までもこのような生活は出来ない。何とかしなくては、と皆で考えましたが、何とも良い知恵は、出てまいりませんでした。
しかしバイタリティーのある姉は、一週間もすると子供を連れて、東京に行きました。

 

私もこうしては居れないと思い近所の小学校に折衝して、次の日から採用になり教壇に立つことが出来ました。

しかし九州の田舎のこと故、子供達の話す方言が理解出来ず、話しも良く分からず、作文も理解するのに苦労致しました。

青年教師の失敗を咎めてビンタをしたりする横暴な校長先生でしたが、私たちにはかなり同情してくれて、一番端の空き教室を生活の場として使用させてくれたりしました。

引き揚げの時には、日本人仲間からいやな思いばかり受けてきましたが、ここで初めて同じ国民から情けをかけられた様に思いました。

 

また、振り返って考えますと同じ国民から受けた数々の仕打に反して、中国人が「女の子なら三千円で売ってくれ。」としっこく、迫って来たとき、ロシア人のムハメザノフさんが様子を察知し部屋に匿ってくれました。

残留孤児の肉親探しが今でも行われておりますが、私もこのような悲しい出来事にまで尾を引かなかったことは、異国のロシア人に助けられたからだと思っています。

 

今こうして皆様にお話し出来る私は幸せ者です。人と人の殺し合い、同国人の争い、肉親の争い、人の心を狂わせるのが「戦争」なのです。私たちの子孫に二度と再びこのような悲惨な戦争は、させないで下さい。

私の命のある限りこう叫び続けていきたいと思います。<完>

 

2001年9月11日同時多発テロ・アフガニスタン攻撃・北朝鮮の拉致事件や自衛隊のイラク派遣等、世界中に不穏な空気が漂ってきていると感じている方が多いのではないでしょうか。 早いもので、私の母(田畑ミツ子)が亡くなって、今夏で9年の歳月が過ぎようとしております。
 戦後50年の地方行政の平和事業に参加し、「これだけは訴えねば」と言いながら「戦争体験記」の手記を綴って、あの世へ去って行ってしまった母でした。
 私は終戦の昭和20年生まれということで、戦争の話り部の架け橋的な役目が課せられているような気がしています。戦争を全く知らない若い方々に戦争の悲惨さを伝え、平和の大切さを知って頂きたいと思います。

2004年2月 いたばし女性史研究会   現代女性文化研究所会員 齋藤 俊子

※メールにて、快く公開をご承諾頂きました。

 

戦後70年の終戦記念日の今日、貴女からの突然のメール、驚きでもあり、嬉しくもあります。
毎年、増刷して、色々な方に差し上げたり、高校生の授業や大学での授業に活用して頂きました。この冊子も今年で、増刷は出来なくなりました。(私の体力が理由で!)これからは貴女達が継承してくださることもむしろこちらからお願いしたいくらいです。どうぞ、このまま、母の名も私の名も使用して頂いて構いません。どうか戦争の真実をいつまでも語り継いで平和を守っていってください。お願いします。貴女のメールに感動しています。本当にありがとう!!

2015年8月15日 いたばし女性史研究会 現代女性文化研究所会員 齋藤 俊子

ー背景ー

満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とは、1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の日本の太平洋戦争敗戦時に至るまで、いわゆる旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者約27万人のこと。満蒙開拓団の事業は、昭和恐慌で疲弊する内地農村を移民により救済すると唱える加藤完治らと屯田兵移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により発案され、反対が強い中、試験移民として発足。

1945年8月9日、ソ連軍が、日ソ中立条約を破って侵入。
最前線では8月9日以前から、ソ連軍の移動の様子がわかっていました。

ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人、その大半が老人、女性、子供でした。

 

ソ連軍の侵入が始まった後、関東軍は”朝鮮の方に司令部を移す”ということで全員逃げました。情報を出したら、関東軍がソ連軍の侵入に気づいたことがわかってしまうということで、関東軍は開拓団員には一切情報を出しませんでした。
しかも、関東軍は列車で逃げた後、ソ連軍の侵入を防ぐため列車が渡り終わると鉄橋を爆破。その結果、日本人も橋が渡れなくなりました。これに現地の医者が反対すると、「しょうがない、作戦だ」と言ったそうです。こうして国に見捨てられ亡くなった満州開拓団が8万人います。

根こそぎ動員(開拓団からの招集)なども含め、満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人。このうち8万人が開拓団。東京大空襲(約11万人朝鮮人含)や広島への原爆投下(1945年末までに約14万人)長崎は(1945年末までに約7.4万人)、沖縄戦(20万人)をも凌ぐ死者数に上ります。

直筆の冊子はこちらからDLできます。